
AI時代の脳のデザイン
最近、AI時代の脳のデザインということをよく考えている。
ここで言う脳のデザインは、脳科学の話ではない。AIが前提になった社会で、人間は何を鍛え、何を委ね、どんな知性の使い方をするのか、という話である。
AIの話になると、多くは「今ある仕事にAIをどう足すか」という方向に流れる。けれど、たぶん本質はそこではない。馬車が自動車になった時、単に移動が速くなっただけではなく、道路や物流や都市の構造まで変わった。AIも同じで、知的労働に便利な道具が追加される、というより、知的労働そのものの前提が変わるのだと思う。
だから僕が気になっているのは、AIが何を代替するかより、そういう時代に人間の脳をどう設計し直すべきか、という方である。
人間の役割について
AIが広がるほど、人間がAIに知的な助言を与える場面は減っていく気がしている。人間より賢い相手に、人間が“賢さ”で勝負しても、あまり意味がない。
それでも人間側に残る仕事はある。僕はそれを、かなり雑に言えば「人間の代弁」と呼んでいる。
倫理観、美意識、違和感、ニュアンス。五感を通した反応。身体の調子や、その場の空気や、なぜかわからないけれど気持ち悪い、という感覚。そういったものは、少なくとも今のところ、人間側が強く持っている基準点である。
別に、人間だけに主観があるとか、人間だけにクオリアがあるとか、そういうことを断言したいわけではない。そんなことは証明しようがない。けれど、少なくとも今の社会で最終的に調整対象になっているのは、人間がどう感じるかである。AIはそこにかなり上手く合わせてくるだろうし、むしろ人間より上手く最適化する場面も増えると思う。だが、何に合わせるのかという入力そのものは、まだ人間側が差し出すしかない。
だから、これからの人間の役割は、AIに勝つことではなく、人間にとって何が良いのかをうまく差し出すことになるのだと思う。
何を手放し、何を残すか
この話をすると、すぐに「暗記はもういらない」「集中力はいらない」という方向に行きがちである。僕はそこには少し慎重である。
人間の能力は、食事に近い。何か一つを雑に抜けば良い、というものではない。知識は創造性を邪魔する時もあれば、支える時もある。論理的な思考も、記憶も、一定量は必要だろう。
だから、AIがやるから不要、という言い方はあまりしたくない。
僕が大事だと思うのは、自分の人生のオーナーシップをAIに渡し切らないことである。AIは最適化が得意なので、自分がこだわらない部分はかなり手放せるようになると思う。実際、それで楽になることは多いだろう。
ただ、人生全体までAIに運転してもらうと、さすがに何をしているのかわからなくなる。便利ではあるが、主体ではなくなる。だから、ある程度考えること、ある程度判断すること、ある程度自分で言語化することは、効率のためというより、人生の著者であり続けるために必要なのだと思う。
一方で、今の社会が要請している能力のすべてを神聖視する必要もない。長時間座って、淡々と、切れ目なく集中し続けることが本当に人間にとって自然で価値のある能力なのかは、かなり怪しい。必要なのは、長い集中より、短くて濃い集中、深い集中なのではないかと思う。
文明や仕事の都合で強化されてきただけの能力は、AIと一緒に少しずつ手放してよいのかもしれない。
賢さと努力について
AI時代に賢さの定義が変わる、とよく言われる。僕は、定義そのものはそこまで変わらない気もしている。賢さは昔からかなり曖昧で、偏差値や学歴だけでは測れなかった。会話や知識の厚みや、ものの見方に滲むものでもある。
変わるのは、賢さの中身というより、賢さの社会的な役割の方だと思う。
昔は力持ちであることが、そのまま仕事や生存に直結していた。今はそうではない。それでも筋力には価値があり、魅力もあり、趣味にもなりうる。同じように、賢さも今後は「生産のための必須能力」から少しずつ外れていくのではないかと思う。
つまり、これまでの知性が生き延びるための知性だったとすれば、これからは自己実現のための知性の比重が上がる。何かを作ること。意味があるかどうかとは別に、作品を生むこと。何かを深く味わうこと。人と関係を結ぶこと。自分が何を望むのかを言葉にすること。そういう方向に、人間の知性がより多く使われるようになるのではないか。
AIはそこもかなり援用してくれるだろう。だが、最後に「自分は何をしたいのか」を引き受けるのは自分である。その姿勢だけは、あまり外部化できない。
だから努力の意味も、僕は本質的には変わらないと思っている。努力とは、ありたい状態に向けて、継続的に自己を変容させることだろう。変わるのは、何のために努力するかである。社会から半ば強制される努力ではなく、自分で選んだ方向に向けた努力の比重が高くなる。
もっとも、これは簡単ではない。AIによって何でもできるようになるほど、逆に何をしたいのかわからない虚無も出てくる。人間は、自由になるほど幸福になる、と単純には言えない。ある程度は強制されている方が楽だった、という結論すらありうる。
それでも、刹那的に消費するだけではなく、何かを選び、そこに向けて積み上げることは、たぶん今後も必要であり続ける。
身体性と教育について
AIが非身体的な知性として強くなるほど、人間は自分の身体をもう一度ちゃんと扱う必要がある気がしている。
海に行くとか、山に行くとか、凹凸のある場所を歩くとか、そういう話である。少しオカルティックに聞こえるかもしれないが、別に神秘主義を言いたいわけではない。平坦な道を歩き、空調の効いた部屋で、ディスプレイだけを見て暮らしていると、自分の体がどういう時にどう反応するのか、その感覚がかなり鈍る。
人間が何を快と感じ、何を不快と感じ、何に違和感を持つのか。その感覚の土台は、案外こういう身体的な経験の中にある。効率だけを追う生活は、AIには向いていても、人間には向いていないのかもしれない。
教育について考える時、ここが特に難しい。これから社会に出るまでに五年、十年ある子どもたちに、今の前提のまま何を教えるべきかを決めるのはかなり不透明である。
暗記を減らせばいいのか。読解を重くすべきなのか。感性なのか。スポーツなのか。身体感覚なのか。正直、簡単には決められない。
ただ、少なくとも思うのは、子どもをあまり閉じた世界に置かない方がいいということである。小さい子なら、自然や人や世界との接点を増やしつつ、好きなことへの障壁をなるべく下げること。中高生なら、学校やSNSの閉じた空気だけで世界を判断しないように、本を読んだり、講演を聞いたり、コミュニティに出たり、社会人の話を聞いたりすること。
AI時代だから特別に変わる、というより、もともと大事だったことが、むしろごまかせなくなるのだと思う。
自分の仕事の変化
最後に、これはもう理屈ではなく実感の話である。
僕自身、仕事のやり方はかなり変わった。以前は、一人で考えて、ある程度まとまってから外に出すことが多かった。今はむしろ、AIに問いを返してもらいながら、自分の中にあるものを反射的に出し、出したものをまとめてもらい、そこからさらに考える、というやり方が増えた。
これは、思考をやめたということではない。むしろ逆で、思考の外在化と客体化がずっとやりやすくなった。自分でもまだ掴み切れていない考えを、対話の中で少しずつ掘り出していける。
AIは答えを出す機械というより、思考の鏡とか、壁打ち相手とか、そういう位置づけに近くなっている。
だから、AI時代の脳のデザインというのは、未来の話だけでもない。すでに、働き方の中で始まっている。
僕はAIをかなり自由の方向に働く技術だと思っている。ただ、その自由は放っておくと虚無にもなる。だからこそ、AIに何を任せるかと同じくらい、何を自分で引き受けるかが重要になる。
- 賢くあることより、自分の人生の著者であること。
- 効率よくこなすことより、何を良いと感じるかを育てること。
- 正解を速く出すことより、自分の中の解をちゃんと見つけにいくこと。
AI時代の脳のデザインと言う時、僕が考えているのは、だいたいそういうことである。
